「京丸うちわ」小丸屋住井女将・住井啓子&デザイナー北川一成「京都の伝統を聴く」

京都の老舗、その伝統を訪ねて vol.2 「京菓子司 末富」山口祥二さん

花街の夏の風物詩として、京都で古くから親しまれてきた「京丸うちわ」。江戸時代の創業から約400年にわたって、伝統のうちわ作りを守り続けている「小丸屋住井」の女将・住井啓子さんと、世界的なデザイナー・北川一成さんを聞き手に、京都の伝統を担う老舗ご主人をお招きしてお話を伺う鼎談企画『京都の伝統を聴く』。今回のゲストは、「京菓子司 末富」の山口祥二さん。京都の暮らしの中に溶け込んだ文化と美意識を、未来に守り引き継いでいくために。京都の魅力について改めて思い巡らし、歴史と伝統の深淵へ連なる本質に迫ります。

−−茶道のお茶席に欠かせない主菓子をはじめ、木の芽やごぼう、れんこんを使った「野菜煎餅」など、京都ならではの和菓子を作り続けている「京菓子司 末富」。京都を代表する和菓子屋のひとつとして知られる末富の特徴は、どんなところにあるのでしょう?

山口:末富の初代は、同じ京都の和菓子屋「亀末廣」さんで修行をしておりまして、1893(明治26年)に暖簾分けという形で創業しました。元々は「亀屋末富」という名前だったのですが、株式会社化した時に「亀屋」を取って、今の「末富」を名乗るようになりました。
初代の頃から東本願寺様や裏千家様のご用を務めさせていただいております。京都の和菓子は、「上菓子屋」と「饅頭屋」と「餅屋」があるのですが、私どもは「上菓子屋」にあたります。
江戸時代の安永4年(1775)に、株仲間である「上菓子屋仲間」が結成されます。幕府の老中である田沼意次の改革の一環で、冥加金を納める代わりに、砂糖の配給を優先的に受けられるようにするものです。京都の菓子屋はそれまでにも御所やお寺の本山、茶道のお家元の仕事を任されていたということがあるので、株仲間ができたのだと思います。当時は京都だけで248軒の上菓子屋があったと言われています。その流れを引き継いでいる「菓匠会」という集まりがあるのですが、今は18軒にまで減っています。
京都の人って、和菓子屋を使い分けるのが上手なんですよ。お客さんのおもてなしは上菓子屋のものを、子どものおやつには饅頭屋のものを、と相手に応じて使い分けができるんです。そこが、京都人のうまいところだと思います。

山口祥二さん
■老舗ならではの創造性

北川:以前にある雑誌の企画で、山口さんのお父さん、先代の山口富蔵さんと対談させていただいたことがあるんです。実は僕、甘いものが苦手なんです。その時もお茶とお菓子を出してもらったんですが、対談を終えてお茶だけ飲んで、お菓子を食べずに帰ろうとしたんです。そうしたら「あんた、お菓子食べへんのか」と言われて、渋々ひと口食べてみた。それまで口にしたお菓子と全然違って、めちゃくちゃ美味しかったんです。こんな上品な甘さの和菓子があるのかと、思わず「めっちゃうまい!」とびっくりしました。

住井:末富さんのお菓子は、本当にどれも品のある味わいなんですよ。私も昔から大好きで、お茶席で頂く時に「ああ、これが京都のお菓子の味やな」と思います。

小丸屋の創造性は、代々受け継がれてきた、いわばDNAのようなものだと思っています。さらにより良いものにしていくために、感性を磨くことを大切にしています。
先祖から代々に渡って築いてきた小丸屋住井の伝統を「いかに次の世代に引き継いでいくか、その中で守っていくこと、発展させて、試行錯誤して新しい創造をものづくりに生かしていくこと」を考えて参りました。脈々と受け継がれてきたその精神に感謝し、常に自分自身の軸になっています。

山口:ありがとうございます。私は家業を継いで約35年になりますが、先代の父から「こくのあるあんを作れ」と教えられました。「あんの味」だけは崩せないところですが、これが難しい。今日だけ美味しいものを作れても、明日に作れなかったらだめですよね。それを100年以上、守り続けてきました。同じものを毎日きちんと作るのは一番難しいことですが、これからも守っていかなければならないと思っています。
もう一つ、父から聞いた話ですが、先々代である祖父はよく、「真似される菓子を作れ」と言っていました。これは「人に真似をされないような菓子を作っても、お客様に売れるわけがないだろう」ということだと思うんです。「真似をされる」ということは、「それだけ良いものを作っている」ということですから、「それくらいのものを作れ」と、常日頃から言われていたそうです。

−−「真似される菓子を作れ」という教えは、とても深い言葉ですね。伝統を踏まえた創造性、クリエイティビティの本質を考える上で重要な示唆を含んでいるように思います。

住井:小丸屋では『京丸うちわ』の他にも、日本舞踊の舞台の小道具も扱っています。舞台で使う扇子では、例えば地唄舞の『黒髪』でも、芸者でいくのか、花魁で行くのか。又、舞台背景によって、部屋場なのか。それぞれ全てイメージが異なってくるので、それに合わせて扇子の絵柄を考えています。「『決まり』を理解した上でものを作っている」というこだわりが奥にあるからこそ、京都らしい味わいが出てくるのではないか、と思います。

住井啓子さん
■東京の「粋」、京都の「粋」

北川:京都の外側に立っている僕から見ると、京都の街って、何気ない看板の文字やタイポグラフィが、絶妙にいいんですよ。デザインの専門知識のある人が手がけたものとは思えないんですけど、とても「京都らしい」というか、あんまり主張しすぎない。何かを足していくのではなく、暗号のように言葉と言葉の間を表現していくような「引き算」の手法が、すごく熟成されている感じがします。
対して東京は「粋(いき)」というか、しゃしゃり出ている感じで、それを面白いと考える文化のフィルターがあるように思います。

北川一成さん

山口:北川さんがおっしゃるように「粋」と言う言葉の読み方に、京都と東京の色々な文化の違いが表れていると思います。関東は「いき」ですけど、関西では「すい」と読みますよね。和菓子作りで同じ色目を使うにしても、関東は力強い色が多いですが、関西は「ぼやけててもいいから」と淡い色を好まれる方が多い。
干支のお菓子を作る時でも、例えば子年であれば、ねずみが「大黒さんのお使い」であることにちなんで「打出の小槌」の意匠にする。あえてストレートに出さずに、ワンクッション置いて相手に分かってもらうところは、東京のお菓子と違うところですね。武士と公家の文化の違い、と言えるかもしれません。

住井:うちわや扇子も同じです。関東ではどちらかと言うと原色系が主流ですが、小丸屋は胡粉を効かせた味のある色を使います。「京都らしい」品というのは、醸し出すものだと思うんです。それがお菓子にしても、扇子にしても、それぞれに共通する「京都らしさ」だと思います。

−−最後になりましたが、「伝統」とは?

山口:僕は、「伝統には2つある」と思っています。初代から培ってきたものがあり、今があるわけですから「あんの味」のように絶対に変えてはいけないことがある。でも、時代が進んで人々の価値観や生活も変わっていく中で、自分ができる範囲であれば新しいことをしていかないといけない。それが10年、20年、100年経った時に、次の伝統になっていくのだと思います。
「末富ブルー」と呼ばれるうちの包装紙も、太平洋戦争後まもなくの頃に先々代が考案したものです。食べ物に青色を使うということが一般的でなかった当時に、あえてやっているのはすごく斬新なことだと思うんです。
先々代は包装紙の意匠を考えるにあたって、東京の国立博物館に色々な絵を見に行ったそうです。お寺や茶道のお家元へお菓子を届けに行く時も、春夏秋冬、四季折々のお寺の風景や樹々の色味を見て、自分が感じ取った全てをお菓子に生かします。そういうことまで含めた全てが、末富にとっての伝統だと思います。それが、次世代につながっていってくれたら面白いかなと思いますね。

住井:京都・深草で生まれた「京うちわ」を400年以上も守り、「京丸うちわ」を作り続けてこられたるのは、京都の「花街」という存在のおかげです。昔は特に関東方面で「京うちわ」の人気が高く、たくさん納めておりました。祖父の代には1カ月かけて集金に回っていたそうで、祖母からよく聞いていました。
時代が変わるにつれて、扇風機やクーラーの時代にになり、涼む道具としてうちわを用いるという文化は少なくなって参りました。今、評判を頂いている「京丸うちわ」の名入れは、約30年前より始めたものです。あるお客様のご希望を叶えて差し上げたいと思い、そのお客様のお母様のお名前で作らせて頂きましょうとご提案した事がきっかけで、名入れのうちわを作る運びとなりました。今では名入れうちわが評判となり、伝統を守る大きな力となっています。やはり伝統というものは、お客様の心を大切にすることだと思います。

※「京丸うちわ」は、株式会社小丸屋住井の登録商標です。(登録商標第5673089号)


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