<出会う>京都のひと

「カップラーメンのない時代、残業食を毎晩100食は運びました」

高度経済成長期に工員さんを支えた大衆食堂。

相生餅 店主 乳原正明、乳原すみ子、乳原正弘

■昔は、朝、久世から九条ねぎを売りにきた。

散歩好きの人なら、市内の複数個所で「相生餅」の看板を目にしたことがあるだろう。「餅屋、それとも食堂?」「フラ
ンチャイズなのか?(その割には統一感が薄いけれど)」。気になる2つの疑問を、本稿で氷解させてみたい。

油小路通りにある食堂、相生餅を営むのは乳原正明さん、すみ子さん、そして2代目の正弘さんの家族3人だ。

手前は正弘さんによる新作のねぎうどん。奥は太巻き。

■働きぶりが認められ丁稚から養子へ

「戦争で、小3までしか勉強をしていません。卒業証書も通信簿もあらへん。次男だから兵隊に志願して、丹波篠山(たんばささやま)の陸軍歩兵隊に配属になりました。1945年の8月に終戦になってよかった。あと2か月遅かったら、14歳で戦死してた」。

1931年生まれ、87歳の正弘さんは学生時代をこう振り返る。正明さんがこの店にやってきたのは18歳のとき。戦前の1933年、正明さんの養父が、豆餅やよもぎ餅、団子をついて売る「相生餅」を創業。養父は正明さんと同じ、兵庫県の但たじ馬ま出身だ。同郷の縁をたどって、丁でっ稚ち奉ぼう公こうに入った。

「私が真面目でよく働くから、養子にしてくれたんです」の言葉通り、正明さんは休みを返上して、年中無休の店を手伝った。そのころの月給は500円だ。

戦後は餅が主体で、補助的に寿司を販売していた。「餅屋、それとも食堂?」の疑問には、「当初餅屋で始まり、食堂に移行した店」が答えになる。

「『相生餅』がフランチャイズ? いいえ、違いますよ。ひとことでいえば組合です。砂糖や上新粉を共同購入すれば、卸元と価格交渉できる。最盛期は15軒の『相生餅』がありましたが、今は3軒に減りました。店を継ぐ人がいないとねぇ」。

そう話す正明さんは餅づくりが得意だ。今は店の奥で休む餅つき機をフル稼働させて、500キロの餅をつくった正月もある、と胸を張る。

妻のすみ子さんが作るおいなりさんが握りこぶし大なのも当時の名残だ。力仕事の労働者たちが、小ぶりなおいなりさんでは満足できるわけがない。

■昔も今も働く人の味方でありたい

1960年代の高度成長期、相生餅が最も忙しかったこの時代、餅屋から食堂へ主軸を移した。

「今、京都駅の南側にイオンがあるでしょう? かつては松下電器の工場でした。空っ腹を抱えて働く工員さんの残業食を毎晩100食運びました」。

残業が3時間以内ならきつねうどん、それ以上ならきつね丼。相生餅の名入りの丼を8個入れた木箱を4段積み、オートバイ3台で工場まで届けた。毎朝5時から深夜12時まで働いた。

妻のすみ子さん

そして今、息子の正弘さんは昼食時、近隣のビジネスマンたちのために、うどんをゆでる。新作はねぎうどん、上に乗せたしょうがが効いた上品な味だ。

「昔は朝早く久世(くぜ)のほうから、大八車(だいはちぐるま)に乗せて、九条ねぎを売りに来たものです」。

正弘さんの目標は現状維持、できるだけこのままでありたいと願う。相生餅、この食堂はいつだって働く人の味方だ。

(2017年7月10日発行ハンケイ500m vol.38掲載)

相生餅は、京都に同名の2つの団体がある。見分け方は「看板のマーク、重なったきねの上部に、持ち手棒の出っぱりがあるほうが、うちの組合です」とすみ子さん。

※現在は閉店しています。店舗についての情報はハンケイ500m掲載当時のものです。

相生餅
京都市南区西九条蔵王町30