ハンケイ5m

「自分自身の可能性が広がり、生きる世界が広がっていく。『スポーツは生きる力』です」

障がいがあっても気軽にスポーツを楽しめる場づくりを行う
京都障害者スポーツ振興会事務局長 中村芳道(なかむら・よしみち)さん

障がいの種類や程度、年齢に関わらず、誰もがスポーツに親しむことができる社会を築きたい。そんな理念の下、中村芳道さんが事務局長を務める一般社団法人・京都障害者スポーツ振興会は、京都府下で半世紀以上にわたって活動している。その歩みは、 1971年10月10日の京都府立体育館の開設をきっかけに始まった。以来、たくさんの人たちがスポーツと出会う機会を提供し続けている。
パラリンピックなどトップレベルを争う競技選手だけでなく、スポーツが未経験、運動が苦手だと感じている人など、幅広い層に開かれたスポーツの場を提供したいー。中村さんたちは「スキルの高度化」と「スポーツの大衆化」という2つの柱を掲げ、多種多様なスポーツの普及活動に取り組んでいる。
「障がいがある人にとって、『スポーツは生きる力』です。スポーツと出会ったことで人生が変わる。自分自身の可能性が広がり、生きる世界が広がっていく。私たちは、それを支えたいのです」。

■「障がい者スポーツ」始まりの一歩

「1964年の東京五輪まで、障がい者スポーツに関する取り組みは、まだ何もないに等しい状態でした。当時のパラリンピックを通して、『障がいのある人も、スポーツをできるのか』と初めて知った人がほとんどだった」と、中村さんは言う。
東京五輪を契機として、全国各地で障がい者スポーツの取り組みが徐々に広がっていく。京都では1971年に、障がい児者の団体や障がい者施設、盲・聾・養護学校など14団体が集まり、「全京都心身障害者スポーツ振興連絡協議会」(京都障害者スポーツ振興会の前身)が発足。同年に開館した京都府立体育館が掲げる「全ての府民を対象とする体育館」の実現を目指して、「障がいの有無や年齢に関わらないスポーツ」への取り組みが手探りで始まった。

■芝田徳造さんとの出会い

「京都での普及には、洛北高校の体育教諭を務めていた芝田徳造さんの存在があります」。中村さんにも多大な影響を与えた人物だ。
1970年代当時、連絡協議会にも所属していた芝田さんは、まず、参加団体に声をかけ、障がいがある人や指導者が集まる「心身障害者スポーツの集い」を府立体育館で開催。中村さんが障がい者スポーツに本格的に携わるようになったきっかけは、この集いだった。
「京都で一番大きい府立体育館で、子どもから大人まで、参加者も指導者も一緒にスポーツを楽しんでおられた。見学だけのつもりで行ったのですが、気づけば私も一緒にスポーツに参加していました」。以降、中村さんもボランティアとして運営を手伝うようになる。

何もないところから「心身障害者スポーツの集い」を立ち上げ、障がい者スポーツの普及にありったけの情熱を傾ける芝田さん。その姿は、支援学校の駆け出し教員だった中村さんにとって道標のような存在だった。
さらに、芝田さんは京都府内を巡回するスポーツ体験教室も企画し、府立体育館から遠く離れた地域に出向いて障がい者スポーツの裾野を広げていった。同時に「もっと専門的にスポーツをやりたい」という人たちの要望にも応えようと、車いすの陸上競技や水泳などの競技選手を育成、大会出場などの活動を支えた。
「芝田さんをはじめ先人の熱意があり、京都障害者スポーツ振興会は一昨年50周年を迎え、息の長い取り組みを続けてこれたのです」と、中村さんは語る。

■「体を動かす」という営み

芝田さんと出会うまでの、中村さんの活動を遡れば、紆余曲折がある。天理大学体育学部を卒業後、中村さんは講師として京都市内の支援学校に勤務する。そこで、自分がこれまで知っていた体育と、障がいがある子どもたちの体育との違いに触れて「ものすごいカルチャーショックを受けた」という。
「トランポリンを使った授業でも、重度の身体障がいがある生徒さんは飛び跳ねるのではなく、トランポリンの上に寝そべっているんです。そして、手や足を少しでも動かせたら、生徒も指導者もみんなで喜び合う。それまで大学で教わっていた競技スポーツの指導とは全く違う世界だと感じました。『ほんのちょっとしたことを共に喜び合う』という素敵な人間関係に惹かれました」。
スポーツの根源にある「体を動かす」という行為の奥深さ。それに触れた中村さんは、支援学校の教員を志すことに決める。
中村さんは、芝田さんが設立した「全国障害児体育研究連絡協議会」にも参加し、障がいがある子どもたちの体育指導について、京都をはじめ、大阪や東京など各地の指導者とともに研鑽を積んだ。
芝田さんから「支援学校での体育の授業は、障がいのある人が若くて体力がある時期に、関わっていることを忘れないように」と、よく言われたという中村さん。
「芝田先生に『学校を卒業してからの方が、人生は長い。体力も気力も落ちていく。君たちはそれをわかっているか!』と言われて、目から鱗でした。支援学校の教員としてだけでなく、生徒たちの一生に関わる中で自分は何をなすべきか。体育やスポーツの授業を通して何ができるか。そのことを、深く考えるようになりました」と振り返る。

■「誰もがヒーローになれる」スポーツ

中村さんは支援学校を定年退職するまで、約40年にわたって障害者スポーツ振興会にボランティアとして関わってきた。水泳、陸上競技、卓球、車いすバスケットなど、多種多様な障がい者スポーツの普及活動に取り組み、実際に体験した。そして「障がいのあるなしに関わらず、スポーツは本来、誰にとっても楽しいものであるべきだ」という思いは一層強まった。
なかでも、パラスポーツ「ボッチャ」と出会い、中村さんは「誰もがヒーローになれる可能性がある」と感じた。「ボッチャは障がいの有無に関係なく、老若男女がハンデなしで本気でぶつかることができるスポーツ。それが魅力なんです。こんなスポーツ、他にはない」。近年、企業の協力も受けながら普及活動に力を注いでいる。
病気や事故で障がいを負った人にとっても、スポーツの持つ力は大きい。中村さんは、障がいがあっても人生を諦めることなく、スポーツをきっかけに自力で人生の可能性を広げた人たちに、たくさん出会ってきた。
「スポーツが『生きる希望』につながり、その後の人生を変えていく転機になり得る」。中村さんは、そう確信している。

(2023年4月5日発行 ハンケイ5m vol.7掲載)


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