サエキけんぞうの京都音楽グラフィティー

vol.05 ギブソン・レスポールの59年物を販売し、マーチンの社長が来店…昭和風情な京都の楽器店、その深すぎる歴史

河原町通の荒神口バス停のすぐそばに、井筒和幸監督の映画『パッチギ』のロケにも使われていた「よしや楽器」という店がある。1975年に開店したというその店は、古き良き風情をたたえる「街の小さな楽器屋さん」だ。京都に仕事で訪れた折にたまたまその店が閉店するとの話を聞き、1月もおわりに近い某日、急遽訪問してみることにした。

マーチン社サインとシタールが並ぶ店頭

この日、僕を迎えてくれたは現店主の田中嘉世さんで、レジ横では店員さんがコツコツと楽器を修理し続けていた。なんでも2018年に名物店主だった夫・田中修さんが亡くなり、そのまま嘉世さんが店を引き継いできたが、この2月末で閉店することにしたのだという。現在、お店は絶賛閉店セール中だが、店内にはまだ相当数のギター、その他の弦楽器、アンプ、小物類、中古レコードなどが並んでいた。インドのシタールも店頭で輝いている。基本は中古で高額商品の委託販売も多い。どうやらとてつもなくレアなギターもあるらしい。新品の販売もある。お店は2月末までで閉店だ!その他、お店の在庫もあるので、それについても、なんとか3月末までに整理したいとのこと。気になる方は行っておかれることをオススメする(開店日は限られているので、事前に問い合わせたほうがいいだろう)。

早速、お店の来歴を聞こうとした僕に、「夫は、フラメンコ・ギタリストだったんです」と嘉世さん。夫の修さんは1960年代からフラメンコ・ギターの名手として活動していたそうで、見せてくれた当時の写真は「こりゃ、嘉世さんも一発で惹かれてしまうだろうな!」と思える精悍な男前だった。60年代初頭にフラメンコ・ギターの神様といわれるモントーヤのギターに魅せられた修さんは、日本に専門家が全くいない中、独自に模索しながらギターの腕を磨いていった。二人は60年代後半には結婚し、結婚当初は、修さんの実家の家業である質屋の質流れ品販売店をするように言われたという。しかし修さんはそこで好きな楽器とオーディオしか扱おうとせず、その販売を行っていた。それが高じて1975年に正式に楽器屋として開業したのだという。

若き日の修さん

「最初の頃はフォーク・ブームでしたから、アコースティック・ギターがぎょうさん出ました。私はハード・ロックが好きだし『エレキもええんちゃう』って扱いだしたら、ロック・ブームでエレキ・ギターが売れるようになったんです」。そんな嘉世さんの言葉に、60年代のフォーク・シーンを担った京都の姿と、村八分を始めとするロック・バンドがどんどん出てくる70年代の京都がパノラマのように浮かんでくる。そして80年代にはバンド・ブームがやってくる。

「80年代には1日10本売れる日もあったんですよ」と楽しそうに回想する嘉世さん。1日に10本!!!さぞ忙しい日々だっただろう。しかもこの店はただのギター店ではなく、「田中さんが気に入ったギターしか扱わない」というポリシーがあり、とことん客&ギターと付き合って、修理はもちろん、買ってくれたお客さんに食事を奢ることも多々あったという。店主がご飯を奢ってくれるお店、知ってますか?せっかくブームで儲かったお金は、そんな風にして、消えていったという。毎晩お客と飲みに行ってギター談義で朝まで口角泡を飛ばし…ひたすらギターと、その仲間と共に過ごす豪快な日々が続いたようだ。

ちなみに、この店では「ギブソン・レスポールの59年物」を売ったことがあるという。素人にはなんのことか分からないかもしれないが、「ギブソン・レスポールの59年物」といえばビンテージ・ギターの最高峰。現在、とんでもなく高騰しており、現行価格は5000万円以上で8000万円に届く場合もあると言われている代物だ。「委託」とはいえ、それを売ったとのことで、価格は2000万円だったという。この委託売上げ手数料で、修さん亡き後のお店の苦しい時期をしのげたというのだからありがたい話だ。さらにこの店はアコースティック・ギターの至高、マーチンの特約店でもある。伝説の名器を売ったということで、この京都の「昭和」な風情のお店に、アメリカからマーチンの社長がわざわざやってきたというのだ。修さんと社長が写った写真も飾ってある。

マーチン特約店証明書

そんな話をしているうちに、古参の店員・中村ゆきまささんがやってきた。自身もギタリストという中村さんはガリガリと音がするアンプをみるみる分解し、接点復活剤で細かく修理し始めた。さらにはエレクトリック・マンドリンを弾くお客さんも来て、一気に店が「和やかなコミュニティ」風情になっていく。このお店にはこうして様々なミュージシャンが訪れたのだろうか?

「高田渡さんや友部正人さん、80年代にはボ・ガンボスのどんとさんなんかも良く来てくれはりましたよ」と中村さん。高田さんは「ニヤニヤ笑ってやってきて、色んなこと立ち話しては、帰っていきはりました」のだそうだ。そうした有名人の方々はだいたい、特に楽器を買うわけでもなく、ああだこうだ、お喋りばかりしていったという。そうだ、80年代までは、そんな場所が至るところにあった。京都ともなれば、音楽を鳴らし、集うスポットが他にもあったのではないだろうか?しかし店主がギターにとんでもない造詣を持ち、リペアもできるよしや楽器は、楽器好きにとってこのうえなく「強力な磁場」を発生していたのだろう。

古参の店員・中村ゆきまささん(左)と、現店主の田中嘉世さん(中央)と3人で

「海外からはジャクソン・ブラウンのギターで有名なデヴィッド・リンドレーも来ましたよ」と中村さん。え!リンドレーといえば、ライ・クーダーとの仕事でも有名なギタリスト最高峰の一人だ。何か買っていったのだろうか?
「店の奥に飾ってあった、極めつけに珍しいテスコのエレキ・ギターをすぐに目ざとく見つけて『これを買えないか?』と言いはったんです。ところが田中さんが『これは飾ってあるだけや!売れん』と突っぱねてしまったんですよ」
なんと、店主は世界のデヴィッド・リンドレーに売らなかったというのだ!「そこは売っときましょうよ…」と僕は思わず嘆息した。少しぐらい惜しくても、そこで関係を作っておけば、カリフォルニアに「YOSHIYA GAKKI」の名前が轟いたかもしれないのに…。
「ですよね。リンドレーさんはとても悲しそうな顔をしてはりました」と中村さん。なんと可愛そうに…リンドレーに同情すると共に、そのとき僕の脳裏には、店主の田中修さんのちょっと誇らしげな顔が、時空を超えてはっきり浮かんだのだった。
こうして有名な音楽家から学生まで様々なお客が集まり、よしや楽器はギター通にとってかけがえのないコミュニティになっていった。客が楽器を鳴らし、店員が修理に励み、ギターの種類やパーツについてダベったり…。そんな風景は、たった今も健在なのである。2023年2月末までは。

田中修さんはフラメンコ・ギターへの情熱を生涯忘れることはなく、スペインの工房に直接訪れて、腕への信用がなされなければ果たされないギター製作をしてもらったり、輸入したりと、研鑽と販売を継続した。田中さんは往年の髪型までパコ・デルシアそっくりの横分けボブになっていた。
そしてさらに、長男のJose Tanaka(ホセ・タナカ)さんは米国に渡り、本格的なスパニッシュ・ギタリストとして音楽シーンを沸かせているというから驚きだ。日本ではMIDIレコードから2枚リリースしている。(「Gypsy's Dream」(1999年、ウェザー・リポートのアレックス・アクーニャ参加)「Lluvia (ジュビア)」2004年)。ホセさんは、世界的フラメンコ舞踊家ドミンゴ・オルテガの伴奏をこなしたことによって、その実力を大きく評価されている。
つまり田中修さんのフラメンコへの夢は息子さんが継ぎ、アメリカ大陸で大きく羽ばたいているというわけだ。

ほんの数時間ほど滞在しただけなのに、小さな楽器店の50年あまりの歴史が、京都を超えて地球をもかけていく。京都には深すぎる場所があることを、またも知ってしまった僕だった。

よしや楽器
〒602-0855 京都府京都市上京区河原町荒神口下
TEL:0752316407
https://www.facebook.com/yoshiyagakki
※金・土・月の12時〜19時、日の12時〜18時のみ営業中


サエキけんぞう

アーティスト、作詞家、1980年ハルメンズでデビュー、86年パール兄弟で再デビュー、作詞家として、沢田研二、小泉今日子、サディスティック・ミカ・バンド、ムーンライダーズ、モーニング娘。他多数に提供。著書「歯科医のロック」他多数。2003年フランスで『スシ頭の男』でデビュー、2012年「ロックとメディア社会」でミュージックペンクラブ賞受賞。最新刊「エッジィな男、ムッシュかまやつ」(2017年、リットー)。2015年ジョリッツ結成、『ジョリッツ登場』2017年、『ジョリッツ暴発』2018年、16年パール兄弟30周年を迎え再結成、活動本格化。ミニアルバム『馬のように』2018年、『歩きラブ』2019年、『パール玉』2020年を発売。
▽サエキけんぞう公式ツイッター
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