TOWA presents 岡田博和ものがたり

Vol.01 草莽(そうもう)の志、抱いて。

宇治茶の産地として名高い京都府宇治市。その東隣に位置する宇治田原町は人口およそ9000人という小さな町ながら、高級茶である「玉露」の生産量で京都府1位を誇るという事実は、あまり知られていないかもしれない。町内を流れる田原川の清流は春に桜、夏は蛍が楽しめ、今なお豊かな自然が息づく。小さいながらも、世界に冠たる「宇治茶」を支える宇治田原町。TOWA株式会社が主力工場として京都東事業所を構えるこの町は、代表取締役社長・岡田博和にとって、自身が生まれ育った思い出の土地でもある。

岡田は兄2人、姉2人の5人兄弟の末っ子として生まれた。小さい頃から体を動かすことが大好きで、いつも野山を駆け回っていたという。「親父は役場勤めの土木建設の技師で、母親は内職。兄弟が多いこともあり、いわば貧乏育ち。遊びといえば、もっぱら野原や川でした」。地元の中学校に進むと野球部に所属し、毎日全力で白球を追いかけた。野球少年として十代をスポーツに打ち込んだ岡田が、今も心に刻んでいる当時の監督の言葉がある。
「自分が出来もしないのに、他人の批判ばかりするのはけしからん」。
仲間のミスをけなしてばかりいたベンチの選手を、監督が一喝した時のことだ。半世紀以上が過ぎた今も、事あるごとにこの時の言葉を思い出す。
「自分は全力でやれるだけのことをやり切っていると、本心から言えるか。仕事においても経営においても、いつも私の根幹にある思いです」。

18歳で社会人となり、駆け出しの営業マンとして働く岡田を支えていたのも「常に全力で、ベストを尽くす」という野球仕込みの信条だった。
「本音で言うと、営業って楽しくない。納期の調整ひとつとっても、お客様と製造現場との板挟み。現場の職人さんに頭を下げに行って、ハンマーが飛んできたこともありました」。時は高度経済成長期、日本が「ものづくり大国」として花開きつつあった日々を、製造企業の営業マンとして若き岡田はがむしゃらに働いた。
「お客様との約束を守る、それが自分の仕事と定め、そのことに必死でした。上司ともしょっちゅう衝突しましたよ。おかしいと思うことは、相手が誰であろうと『おかしいじゃないか』と言う。スーツの胸ポケットにいつも辞表を忍ばせてね、『筋が通らないなら、いつでも辞めてやる』という覚悟でした」。

心のうちに飛び切り熱い思いを秘めて、ひたむきに営業の仕事と向き合う。まっすぐな情熱を宿した二十歳そこそこの若者の運命は、精密金型加工業界でカリスマとして全国にその名を知られていた一人の技術者との出会いを通して、大きく動き始める。後に岡田をはじめ30人の同志とともにスピンアウトし、1979年に「東和精密工業株式会社」(現・TOWA株式会社)を旗揚げする坂東和彦だ。
「創業メンバーの中で一番若かった私が、鞄持ちとして坂東会長の行く所どこでも付いて回った。振り返れば、実の父親以上に多くの時間をともに過ごしました」
創業当時、社長の坂東が43歳、岡田は27歳。営業担当として、開設したばかりの東京営業所を拠点に、岡田は単騎、新たな顧客開拓を担うこととなる。「超精密金型」と「半導体製造装置」という時代の先を見据えたTOWAの第一歩が、ここから始まった。

sponsored by TOWA株式会社