〈ファッショナブルな生き方〉

「作品を閉じ込めるのではなく、作品が秘めるストーリーを引き出すことで、イメージはさらに広がっていくんです」

■額装のプロフェッショナルとして、独自のアートを追求する岩滝絵美子さん

年齢を重ねるなんて素敵だ。「自分らしく」ファッショナブルなあの人は、いつだって美しい季節の中を生きている。

作品と対峙し、世界観を引き出す額装のプロフェッショナルとして活躍する岩滝絵美子さんもそんなひとり。京都らしい美意識を大切にしながらも、まだ誰も見たことがない、ワクワクするような額装を形にしたいから。自分自身の好奇心を指針として、審美眼を磨き続ける。

■周囲の愛が守った小さな命

1949年、京都の額縁屋「京額」の次女として、この世に生を受けた岩滝さん。出産時の体重は、わずか1000グラムに満たない超未熟児だった。保育器などの医療も満足になかった時代、「この子は、よう育たへんかもしれん」。取り上げてくれた産婆さんは、両親にそう告げたという。
「私が生まれてからしばらくは、父が付きっきりで、湯たんぽで周りを温めてくれていたそうです」。両親ともに額縁屋の家系で、職住一体だった生家では多くの職人が暮らしをともにしていた。「絵美子」と名付けられた小さな命は、周囲の愛情に守られ健やかに育てられた。

■女子校時代に描いた「男女平等」という夢

「小学校の時は、男の子と一緒になって走り回っているような女の子でした」。たくましく元気に育ったのは大変結構だったが、両親は「娘らしい落ち着きを身に着けさせたい」とも願った。中学・高校はノートルダム女学院に進み、修道女であるシスターから礼儀作法の薫陶を受ける。
女子校での落ち着いた日々を楽しむ半面、岩滝さんの中で「このまま箱入り娘で居たくない」という思いが膨らみ始める。「大人になったら、ビジネスで世界を飛び回る女性になりたい。男女対等に生きていきたい」まだ“花嫁修行”という言葉さえあった時代、それはまさに「女性としての夢」だった。
「ビジネスには情報が欠かせない」と、当時出来て間もなかった関西大学社会学部のマスコミュニケーション学科に進学。全学生のうち女性はわずか1割ほどだったが、記者やメディア関係の仕事を目指す同級生と交流し、「情報」の本質について考えを深めていった。

■「情報」こそ、発想の源

いかに時代の先を読み、情報を掴み取るか。それは、表具師から続く額縁屋という生業をいかに継続させるか、というビジネスの本質にも通じる。「世界の情報を、自分自身で見て回りたい」という強い好奇心に突き動かされて、岩滝さんは20代の頃から積極的に海外へ飛んだ。
とりわけ、世界最大級の見本市とも呼ばれるドイツのフランクフルト・メッセは、25年以上に渡って毎年通った。テキスタイルから文房具まで、額装とは無縁に思えるようなものでも徹底的に「情報」を集めて回るのが、岩滝さんの流儀。「日本を出発する時は、とってもハングリーな気分。海外で朝から晩まで、一人で色々と見て回ってたくさんの情報を吸収すると、すごく満腹感がありますね。そして知れば知るほど、知りたいことが増えてくるんです」


■アートとしての額装、その可能性を追い求めて

先代だった父が鬼籍に入り、35歳という若さで家業である「京額」の跡を継いだ岩滝さん。持ち前のフットワークの軽さと好奇心を武器に、ビジネスを率いてきた。京都の経済界には、同じ経営者として苦楽をともにしてきた仲間も多い。「女性だから、男性だから、という決め付けは、私は合いませんね。枠にはめる様なことは、性に合わない」と豪快に笑う。
絵画や写真だけでなく、スカーフや人形、着物や帯、ギターや玩具まで、持ち主の依頼を受けて手がけた額装は多岐に渡る。そのどれもが、この世にただ一つの宝のような、かけがえのない存在だ。じっくりと向き合い、それに相応しい額で囲うことで、世界観を表現する仕事を信条としてきた。
「仕上がった額装を見て、お客様が驚いた顔をされると『最高!』と思います。作品を閉じ込めるのではなく、作品が秘めるストーリーを引き出すことで、イメージはさらに広がっていくんです」。アートとしての額装の表現は無限だ。まさしく人生と同じように、千差万別、多種多様な彩りに満ちている。

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