ファッショナブルな生き方

「店のメニューはうんと減らして、自分で描いた絵をたくさん飾って。オリジナリティがあって、いいでしょう?」

■至高の紅茶に導かれ、紅茶専門店を開業した花輪厚子さん

年齢を重ねるなんて素敵だ。「自分らしく」ファッショナブルなあの人は、いつだって今がいちばん美しい季節の中を生きている。

一杯の紅茶を味わうことに、あたう限りの創造力を傾けてきた花輪厚子さんもそんなひとり。子育て、起業、そして、憧れの美術の世界へ。ひとつひとつの歩みをつなげ、人生の新しい扉を開いた先に、真っ白なカンバスが待っていた。

■絵画や文学を愛した少女時代

東京で生まれ育った花輪さんが、故郷を遠く離れた京都で紅茶専門店「アンナ・マリア」を開くまでの人生は、少し数奇な運命に彩られている。
花輪さんの父は、1947年にシベリア抑留から帰還。翌48年に四人姉妹の末娘として花輪さんが生まれる。「小さい頃は、絵を描いたり、文学を読むのが好きだった」。高校時代は上野の国立西洋美術館へ足しげく通った。ミロのヴィーナス、エジプトのツタンカーメン展…。美というものの存在と、それに対する畏怖にも似た想いに引き寄せられた。


■美への憧憬と、裏腹な否定感

しかし、時代は1960年代の「政治の季節」。美術や文学へ憧憬を抱く半面、内心では「何の役にも立たないものを好きな自分は、ダメな人間だ」という否定感が膨らんでいく。合格していた上智大学の国文科へは入学せず、東京女子大学短期大学部に進み、国際関係論を学んだ。「周囲では学生運動が盛んだったけれど、自分たちはゆりかごの中に居るような、温室みたいな学生時代でした」。

■結婚、海外赴任、そしてー。

大学卒業後、23歳で石油プラントのエンジニアをしていた夫と恋愛結婚。長男、次男を授かった後、夫の仕事の関係でシンガポールへ移住。その地で、当時小学3年生だった次男が交通事故に巻き込まれる。意識不明の重体を乗り越え、命は取りとめた。ただ、「高次脳機能障害」という後遺症が残った。
「5年くらいは、事故について、誰にも話せなかったんです。話そうとしたら、涙が出ちゃって、話せなかったわね」。慣れぬ土地で、壮絶な苦労を伴う経験だったに違いない。そんな中でも、一杯の紅茶を味わうひと時が、ささやかな癒しになった。素朴な甘さの自家製のお菓子と、丁寧に淹れた紅茶の香りは、疲れた心に染み入った。

■「とってもおいしい紅茶」を求めて

花輪さんが、京都・嵐山の一画に建つ夫の実家を改装し、紅茶専門店「アンナ・マリア」をオープンしたのは2005年のこと。20代の頃に一度だけ口にした「とってもおいしい、『Dimbula』と『Uva』という紅茶」を探し求め、「奇跡のような出会い」を重ねて、ようやく手にしたスリランカ産の最高品質の紅茶を提供している。紅茶とともに出されるスコーンと、庭の夏ミカンを使ったマーマレードは自家製だ。さわやかに甘く、ちょっぴりほろ苦い味が、紅茶をさらに引き立てる。

「80歳まではデッサンをして、80歳になったら油絵で描きたいものがあるの。それを描けたら、人生の自分らしい締めくくりができるかな、って」。店内の壁には、ティーポットとカップ、砂時計を描いたデッサン画が掛かる。3年前の69歳のときに京都市左京区の関西美術院に入会し、本格的に絵を始めた花輪さんの作品だ。「店のメニューはうんと減らして、自分で描いた絵をたくさん飾って。そうしたら、オリジナリティがあって、いいでしょう?」といたずらっぽく微笑む。ずっと心に秘めていた憧憬と尽きない創造力が、今、カンバスの上に広がっていく。


撮影協力:無鄰菴管理事務所(植彌加藤造園株式会社)

【無鄰菴】
1894(明治27)年~1896(明治29)年に造営された、明治・大正時代の政治家山縣有朋の別荘。国の名勝に指定されている庭園と、母屋・洋館・茶室の3つの建物がある。庭園は施主山縣有朋の指示に基づいて、七代目小川治兵衛により作庭された近代日本庭園の傑作。
希望者には毎時05分、30分に、無料で10分間のガイドを実施している。また、毎週末の午前11時半から開催している「週末庭園めぐり」も人気。庭園コンシェルジュによる日本庭園の見方の解説で理解を深めた後、美しい庭園を180度眺めながらゆったりとお抹茶がいただける。(※前日までに要予約)

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